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    2024.05.24

    見たことのない自然風景

    見たことのない自然風景

     

    4年前から福島県双葉町の復興事業の手伝いをしています。

    東日本大震災の時は娘たちが小さく、福島第一原子力発電所事故の直後は、家族を九州の実家に避難させました。震災とその後の原発事故をニュースやメディアで見ては、心を痛めていて将来に対するなんとも言えない不安を抱えていました。

    震災から1〜2年経った頃、東北のある自治体の震災復興の仕事を依頼されたのですが、被災された方たちを前にしてどういう感じで現地と関わっていいかうまく心の整理がつかず、途中でお断りしてしまいました。

    東北地方の太平洋側沿岸部の津波の被害で被災された方たちのことを思うとやるせない気持ちになるのですが、一方で地域の衰退は津波によってもたらされたというよりは、震災のもっともっと前から深刻だったはずで、震災復興という大義名分を掲げておこなわれる開発的な基盤整備や公共施設の建設に対して、当時の自分の了見ではうまく心の折り合いがつかずにいたのです。

    なので、今後東北の震災復興には関わってはいけないだろうと自分の中で決めてしまっていました。

    毎年3.11がやってくれば東北や福島のことには心を寄せるけど、自分からアクションを起こしたりするようなこともせずに、あまり関心も持たずに過ごしていました。

    そんな2019年のある日、お世話になった元国土交通省の佐々木晶二さんから双葉町の復興について力を貸して欲しいと言われました。佐々木さんは災害復興は専門であり、双葉町のことについては国家公務員としての責任も感じているということでした。前述のようなこともあったのでしばらく悩んだのですが、佐々木さんからのお願いはお断りするわけにもいかず、引き受けることにしました。

    僕が初めて双葉町を訪れたのは、帰還困難区域の一部の解除を1年後に控えた2019年の10月のことです。

    いわき駅からレンタカーに乗り、国道6号線を北上して双葉町に入りました。
    道路の両側には、いまだにバリケードが張られ、沿道の被災した建物が解体されずに当時のままに生々しく放置されていました。9年近く経ってもまだこんな状況なのかと思いました。

    旧役場庁舎を訪れると、福島第一原発が水素爆発を起こして全町避難になったあの日の、あの時のままの状態でした。そのままの状態で荒れ果てていました。

    原発の状況を刻一刻と記載したホワイトボードもそのまま残されていました。

    その時に思ったのは、これは、これまで日本のエネルギー政策に対して無関心に東京で便利な暮らしを享受し、冬は暖かく夏は涼しく暮らしていた僕たち大人たち全員の責任だなと思いました。

    日本人の大人たちは、全員一度双葉町を訪れるべきだと思ったのです。

    原子力政策についてはいろいろな意見があると思います。でも双葉町を訪れてこの現状に触れて、僕は賛成とか反対とか簡単に答えが出せる問題ではないと考えるようになりました。
    双葉町に行くたびになんとも言えない気持ちになるし、怒りにも似た感情が湧いてきます。

    一方で、最初に双葉町を訪れたときに、とても風景が綺麗な場所だと思いました。
    災害によって人々の暮らしや生業が失われてしまった場所ではあるものの、もしかしたらそのことで他の地域では考えることができないような将来像を描ける可能性があるのではないかと感じました。

    僕たちは50年先の双葉町の未来のあり方を有識者の方たちへのインタビューや町民の方たちの思いや考えをベースにして将来のための「(仮)ビジョン」にまとめるという仕事をしました。

    そのビジョンをこちらのページにまとめてあります。
    ヒラクフタバ https://www.hiraku-futaba.jp/

    実は、この仮ビジョンをまとめる過程で、最初の年に僕が思ったことがあります。荒唐無稽なアイデアは政治的に意思決定できるものでもないと思います、だけど、僕が双葉町を実際に訪れてみて感じたことと素直に思ったことです。

    帰還困難区域の指定が解除されて直後は、双葉町で働く公務員の数と実際に町内に住む帰還した住民の数はほとんど同数だろうということでした。期間困難区域の指定が解除されても戻ってくる町民は限られているだろう。しばらく経ったとしても10年という歳月で生活の基盤を町外で築いた町民の大多数が戻ってこない可能性が高い。

    そんな自治体では通常の行政サービスは成立しないと思いました。であるならば、人がすまなくなって不要になった都市的な基盤をなくしていくことを公共事業にできないだろうかと思ったのです。具体的には、数十年かけて、道路や橋、電力インフラなどを丁寧に少しずつ無くしていくことを仕事にするのです。

    成長思考ではなく、創造的な撤退を見据えたインフラの除去。
    そして数十年後に、この町は他の地域では決してみることのできない自然の風景を獲得できるかもしれないと思いました。その風景こそが地域の価値になり地域の暮らしや生業を成り立たせる産業になりうるのではないかと考えました。同時に、もしかしたらこれは日本全国の中山間地域が抱えている将来に対する共通の課題ではないかとも思いました。

    これは言葉で説明してもなかなか伝わりづらいと思っていたので今回、思い切ってビジュアルにしてみることにしました。ヒラクフタバの企画でメッセンジャーインレジデンスを開催することになったので、開催に合わせて僕も双葉町を訪れ、今の双葉町の風景を写真に収めました。

    コンピューターによる画像編集は、萩康博さんと田中聖子さんの協力を得てインフラのなくなった30年後の風景を妄想してみました。

    そんな6つのイメージです。

    Scenery in Futaba 2024/2054
    撮影      :嶋田洋平
    画像加工・編集 :萩康博(001,003,004)
            :田中聖子(002,005,006)

    0012024年

    2054年

    002


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    006

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    2054年

    加工・編集内容
    アスファルト舗装の道路・コンクリート護岸・電柱・ガードレールなどのインフラは消しました。
    橋はかなり古くから存在していそうなもの(戦前から道として橋がかかっていそうなもの)については残しました。
    現時点で解体されずに残っている建物についは、所有者が意志を持って残しているものだと思いますので、残しました。

     

    text by Yohei Shimada